私たちは、神様の御前で、あるがままの自分自身に、自分の中のまっすぐでない「荒れ野」、闇、救いを必要とする自分の心の叫びに向き合うことに呼ばれているのです。
ヨハネは、自分の真実を知っていました。「私は、主の履物のひもを解く資格もない」(同1・28)と、「あの方は栄え、私は衰えねばならない」(同3・30)と、「自分は何者であるか」ということを悟り、分を弁えていました。
ヨハネは、神の御前にあって、謙虚にあるがままの自分を、強さも弱さも認め、受け入れることによって、神は光となって、私たちの心を照らし、「荒れ野」を、自己と神との深い「出会いの場」としてくださるということを教えているのです。
「悔い改める」とは、私たちの中に、見たくないような暗い「荒れ野」、罪や弱さがあっても、すさみの時があっても、そのままで、一人ひとりの救い主、光そのものとなって共に生きてくださる、主イエスに出会って行く道を指し示しているのだと思います。