仕事と私

片柳 弘史 神父

今日の心の糧イメージ

 どんなにやっても目に見える成果が上がらず、誰も評価してくれない。そんな仕事をしていると、つい「何のためにこんなことをしているのだろう」と考えてしまいがちだ。そんな私たちに、マザーテレサはこう語りかける。

 「仕事に意欲を感じられなくなったら、『何のために』と考えるのをやめ、『誰のために』しているのかを思い出しなさい。」

 人からの評価やお金、地位など「何か」のために働いていると、しだいに私たちの心を空虚さが蝕んでゆく。仮に自分の思い通りの結果を手に入れ、人から評価されたとしても、それは同じことだ。「何のためにこんなことをしているのだろう。」その問いが、やがて私たちの心の隙間に忍び込んでくる。

 そんな気持ちになったとき、一番いいのは「何のために」と考えるのをやめ、「誰のために」しているかを思い出すことだとマザーは言う。この仕事をすることで喜んでくれる誰かの顔を思い浮かべ、その人のために働きなさいというのだ。それは家族でも、友だちでも、助けを求めている見ず知らずの誰かでもいい。大切な誰かが喜ぶ顔を思い浮かべれば、私たちは疲れを忘れ、「またがんばろう」という気持ちになれる。「何か」のための働きは倦怠を生み、わたしたちを疲れさせる。しかし、「誰か」のための働きは愛を生み、愛は疲れを知らないのだ。

 例えば、山登りでみんなの食料を運ぶ係になったとしよう。「なぜ私がこんな荷を」と思えばリュックはますます重くなるが、「これはみんなで食べるお握りだ」と思えばリュックは軽く感じられる。あらゆる仕事について、これと同じことが言えるだろう。疲れたときには、「何のために」と考えるのをやめ、「誰のために」しているのかを思い出したい。

幼子誕生

新井 紀子

今日の心の糧イメージ

 私は3人の子供に恵まれました。次女奏が生まれたとき、長男5歳、長女は1歳でした。私は朝から晩まで子供たちの世話に追われました。次女の奏は目を離すと危ないので、いつも私の背中に負ぶっていました。そのせいでしょうか。お誕生日が過ぎても歩いてくれないのです。

 ある日曜日、夫の友人が遊びに来ました。私はおもてなしのためにさらに忙しく立ち働いていました。友人が子供達を見てくれるというので、私は子供たちを庭に敷いた敷物で遊ばせることにしました。長男長女は喜んで遊んでいます。負ぶっていた次女の奏もそこで遊ばせようというわけです。

 「お姉ちゃんたちと遊んでいてね」

 私は背中から奏を下ろすと敷物の上に座らせました。そして私は家の方へと歩き出しました。その時です。奏がわっと泣き出しました。立ち上がると私を追いかけて歩き出したのです。ワーワーと泣きながら、1歩2歩3歩。

 「奏ちゃんが歩いた」

 夫も、子供たちも友人たちも集まって注目しました。みんなに囲まれて驚いて、奏は声を張り上げ泣きじゃくりました。

 奏は結婚し2人の子供に恵まれました。

 2人目の子供潤ちゃんは1歳3か月になってもまだ歩きません。立ってもすぐにハイハイをしてしまうのです。

 娘の奏から潤哉の様子を聞いた私は「奏もね、私がいつも負ぶっていたから、なかなか歩かなかったのよ」

 そういう会話をしてから1か月後のことです。奏から潤ちゃんが歩いたと写真を送ってきました。その写真には得意そうなニコニコ顔で歩いている潤ちゃんが写っていました。1年4か月目の初めの一歩でした。

 親として幼子が初めの一歩を踏み出すことは大変嬉しいことです。

 歩く道が平安であるよう祈ります。


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