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幼子誕生

黒岩 英臣

今日の心の糧イメージ

 12月と言えばクリスマス。ご自分には何の罪も無いのに、私達全ての人の罪を肩代わりして背負い、十字架に磔にされて死んで下さったイエス・キリストの誕生を祝う日です。

 こうしてクリスマスの夜、生まれたばかりの幼子として、家畜の飼い葉おけの中で東の国の博士たち、近郷の羊飼いらの礼拝を受けられた主イエスは、後に神とはどのような方であるかを人々に語り聞かせます。その様子は福音書に記されています。

 そのうちの一つに、放蕩息子の例え話があります。(ルカ15・11~32)

 ある息子が父親に早く財産を分けてくれとせっつき、莫大な財産を手にすると、外国に出て遊蕩三昧。ついにお金を使い果たし、豚の餌をあさるほどのみじめな暮らしに陥った時、父を思い出し、お父さんに対して罪を犯しました・・と謝罪して、使用人として働かせてもらおうと国へ帰ってきたところ、まだ遠くにいたのに、父は息子を見つけ、走っていってその子を抱きしめ、「死んでいたのに蘇った」といって、大宴会を催すのです。

 この、あくまでも温かい父親は神のたとえであり、放蕩息子は一人一人の私達です。旧約聖書の創世記で、神が人間を造られた時、素朴ながら人は神に感謝することを知っていたようです。そこで神はこれを「よし」と見られたのでした。

 ところが、早くもここに私達の抜きがたい本性である利己主義、あるいは神を認めない自己中心主義が芽生え、私達は罪を犯すことになってゆきました。

 罪を犯さなかった人は誰もいません。そこでヨハネの手紙には、こう記されています。「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。」(1ヨハネ4・9)