「ここはどこ?」と思いました。救急車で運び込まれた病院の検査室で意識が戻った時の最初の想いです。
憩室出血という病気で下血がとまらず、あの時は夢か現か、目の前に扉が見え、その向こうは天国なので、天国ってどんな所か、扉を開けて見ようとしたのですが、何故かその扉は開かず、諦めて、しょぼしょぼと戻りはじめました。そして、ここはどこ、と検査室で目覚めた次第です。
さて、この夢か現のさなか、今思うに、天国への扉が開いて欲しいと、私は幼児のような素直な叫びをあげていたようです。神様、どうかその扉の中に入れて!と子供のような求め方をしていたのを今でも明確に覚えています。
20代の前半、初めて宗教心理学に基づく心理療法という学問にふれましたが、その頃の私の神様のイメージは、恐ろしい裁きの神といった感じでしたが、旧約聖書の雅歌を教えていただいた時の驚きは、何とも言えない衝撃でした。恐ろしい神から恋人のような愛の神に変身したからです。
さらに宇宙万物の創造主がこの地球に来られた姿がまたまた驚きでした。なんと赤ん坊の姿で現れたからです。聖母マリアに抱かれた幼子キリストの名画が、もし私の前になかったなら、私の信仰の世界はどうなっていたのでしょう?
世界各地での仕事上の恐ろしい体験のさなか、いつも危険から逃げ回る時の祈りは、子供のように「神様、たすけて」という祈りでした。
今でもその習慣が大きく、難しい祈りの本を脇において、「神様たすけて」という単純な祈りになっています。これも幼子キリスト様のイメージが私をいつも気楽にさせてくださっているからのようです。
幼子誕生の姿は私の信仰の原点のようです。