先輩に倣う

片柳 弘史 神父

今日の心の糧イメージ

 神父にもいろいろな人がいるが、すべての神父に共通していることが一つだけあると思う。それは、神に自分のすべてを捧げ尽くしているということだ。生き方はさまざまだが、どの神父も顔はまっすぐに神の方を向いている。

 たとえば、こんなことがあった。出張で、東京の大きな修道院に泊めてもらったときのことだ。受付で鍵をもらって部屋まで行くと、中でせっせとモップをかけている人がいる。「すみません、掃除が間にあいませんでした」と言いながらこちらを振り返ったその人の顔を見て、私はびっくり仰天した。かつては世界を股にかけて大活躍していた、ある高名な神父だったのだ。「自分でやりますから、神父様はそんなことをなさらないで下さい」と私が言うと、その神父は静かなほほ笑みを浮かべながら、きっぱりと「これがいまの私に与えられた使命ですから、わたしにやらせて下さい」と答えた。高齢で引退してからは、その修道院の部屋の管理を任されているのだという。

 その神父が大活躍していたころ、いつか自分もあんな風になれるだろうかと彼に憧れていた。だが、この言葉を聞いたとき、私の思いはただの憧れから深い尊敬に変わった。この神父は、自分の栄光など一切眼中にない。ただ、神から与えられた使命を全力で果たしているだけだと、はっきりわかったからだ。その神父の顔には、ただ神にすべてを捧げ尽くした者だけが持つ清らかさ、すがすがしさが宿っていた。

 かつてマザー・テレサは、「私たちは、神から与えられた使命を果たしては去ってゆく、神のしもべにすぎません」と語った。自分のことなど一切考えず、ただ神から与えられた使命に全力を尽くす神父、神に自分のすべてを捧げ尽くした神父に私もなりたい。

先輩に倣う

崔 友本枝

今日の心の糧イメージ

 私は尊敬できる「人生の先輩」に何人も会った。その中に、九十歳近い女性が一人いる。神様へのゆるぎない信頼と、聖書を愛する心は昔から少しも変わらない。神様の話をするとニコニコして「楽しいわね!」といつも喜ぶ。

 私は彼女が体験した試練について、これまで何度も話を聞いた。実際にそばで見たこともある。どれほど大きな苦しみにあっても、彼女はまっしぐらにミサに行った。

 ミサは、イエス・キリストの「最後の晩餐」を記念する礼拝だ。記念であると同時に再現でもある。私たちは、そこで二千年前の出来事を再体験する。あの日、食卓でイエスが祈った後、パンを弟子たちに分け与えたように、今は司祭が祈り、私たちにパンを配る。パンはイエスご自身に変化したものだ。このパンをいただくと私たちの霊は力づけられ、神に支えられるのがわかる。彼女は特に苦難の時、ミサにあずかることに慰めを感じていた。

 神様は、実に大きな苦しみを繰り返し彼女に与えた。しかし、何度大きな試練にあって涙を流しても、彼女は変わらない態度で聖書を読み、毎日のミサに通った。その姿は他の人の信仰を励まし、希望を与えていた。

 私が彼女から学び、見倣いたいと思うことは、神様を第一にすることだ。その後で日常の義務を果たす。すると、神ご自身が私たちのお世話をしてくださる。

 私もかつて、精神的に苦しい時期、神様は何度も助けてくださった。想像もしなかった人から思わぬ助けがあったこともある。「ただ神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる」(ルカ12・31)という聖書の言葉どおり、神のお喜びになることを優先すると素晴らしい体験をすると実感している。


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