今年、世界と私たちの日常生活は、新型コロナウィルスの感染拡大によって覆されました。教会のミサも、あらゆる活動や外出も自粛要請され、「社会的距離」という言葉が頻繁に使われ、教会の本質である「交わり」がゆるされなくなったとも言えます。そんな中、人間として、キリスト者として、どのように生き生きと生きることができるのでしょうか。
主イエスが十字架上で亡くなり、愛する師を失った大きな喪失感の中、心を閉ざしてしまった弟子たちを思い起こします。「何故、こんなことが」という大きな疑問が彼らの頭をもたげたに違いありません。今年の復活節ほど、この弟子たちの状況を理解し、彼らの思いに共感できた経験はありませんでした。
しかし、復活されたイエスは、失意の中で暗く深刻な表情の弟子たちに、「平和」を与え、いのちの息を吹き込まれました。弟子たちは、主の復活と共に、生き生きと新しいいのちを生きる者に変容されました。イエスや弟子たちと同じように、私たちの人生や日常にはいろいろなことが起こり、説明のできないことも多いです。しかし、主は、弟子たちの体験を通して、私たちにも「平和」を約束し、いのちの道を示してくださるのです。
新型コロナウィルスの出現は、私たちに、時間をとって、自分の人生や生活の中で何が大切なのか、今一度考えるようにという機会を与えたのかもしれません。以前の生活の中では当たり前のようなことが実に有難く、日々、出会う人々や関わり、交わりによってどんなに支えられているかに気付き、今を、神のいのちを生き生きと生きるようにと促される好機として捉え、主と共に歩み続けたいと思うのです。