

何かいつもと違う出来事があったり、大きな責任を任されたりすると「神様、どうぞ見守ってください」といつも以上に神様に願い求める。この祈りをあらためて振り返ってみると、単に、ただとりあえず見ていることや無事に成功のうちに終わることを願っているのではない。
失敗したりくじけそうになった時にも、私と共にいて歩み続けてくれることを願っているし、また、物事がうまく進まない時に感じる私の他者に対する負の感情であったり、自分自身に対する嫌悪感を神様が受け止めてくれることを願っている。だから、「神様、どうぞ見守ってください」という祈りは、私の神様への信頼であり、同時に、神様からの積極的なかかわりがそこにはあるのだろうと思う。
そうして私は、いつも神様に見守り続けられている。
学生や生徒たちなど若い人々とのかかわりの中で、彼らの成長を見守りたいと思う。しかし、時に思いもよらない言動で反発を受けたりすると、"どうしてあんな態度を取られないといけないんだろう"という怒りと、"ああ、こちらの思いが伝わらなかったな..."という諦めと、そして、"伝え方が悪かったか..."と自分の力量を反省しつつ、「見守る」ということの難しさを痛感させられる。
時には、学生や生徒たちの言動に「もう、無理」と、さじを投げたくなることもある。しかし、神様がいつも私の思いを受け止めてくださりながら、決してかかわりを断ち切らないように、彼らの行為とは別に、彼らが抱く思いをいったんは受け止めつつ、彼ら自身の存在を否定しないかかわりを持ち続けたいと思う。
ゲッセマネの園で散り散りに逃げ去った弟子たちを、決して否定しなかったイエス様のように。