『今日の』祈り

三宮 麻由子

今日の心の糧イメージ

 「ああ、神様」

 この一言しか出ないときの祈りが実は1番深いなと思うことがあります。

 カトリックでは、ミサの中でたくさんの祈りを唱えます。初めて経験したときには、とてもおぼえられないと思いましたが、馴染んでいくうちに、いつしか自然に出てくるようになりました。心の機微を正確に言葉にして祈るのは難しいものですが、ミサの中で決まった祈りをたくさんの人と一緒に唱えていると、そうした細かな祈りがすべてミサの祈りに乗って神様に届いていくと感じることがあります。長い年月をかけて完成された祈りには、こういう力があるのでしょう。

 しかし、人生にはどうやっても受け止めきれない試練があります。解決の糸口が永遠に見えないように思える問題も発生します。

 どうしようもなくなって「もう祈れません」と宣言し、祈りから遠ざかってしまうことだってあるのです。

 それでも、私は神様が待っていてくださるとどこかで信じています。祈れないといっても、1度神様と出合った人は、どこかで祈っていることが多いからです。不思議なことに、神様との対話を打ち切っていても、誰かが必ず見ていて、代わりに祈ってくれているのです。ある程度時間が経ってそれが分かったとき、祈りは戻ってくるようです。「ただいま」、といった短い祈りになることもあるでしょう。

 長く祈らず瞬間的に神様と通信する方法に、射祷というものがあります。神様は祈る前から私たちの状態を見ておられるわけなので、本来は「ああ、神様」と呼びかけるだけで、「分かっているよ」となるはずなのです。

 だから力を抜いて一言「神様、あのね」と始めてみる。

 祈りに困ったら、試してみると良いかもしれません。

『今日の』祈り

村田 佳代子

今日の心の糧イメージ

 マルコによる福音書の「成長する種」と「からし種」のたとえ話は、多くの教えを含んでいます。イエズスさまは神の国のたとえとして話されたのですし、話の聞き手にあわせ、どういうたとえを用いるか考えてお話になったと聖書には書いてあります。

 「人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。」(マルコ4・26~27)「・・どんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり・・」。(同4・31~32)茎が伸び最後に実を結ぶまでを知っているのは土だけだということでしょうか。

 勿論実際に農業に携わる人は植物の成長について知り尽くしているでしょうが、謙虚に日常を振り返れば、天候不順の不安や害虫駆除の苦労など、ハプニングに見舞われ通しであったと思い至り、植物の成長を全て知っていたのは土だけだったと気付くはずです。そして良い芽が出てくるようにと願い、成長を見守り、今日こそという節目節目に適切な手入れをしてこそ、見事な収穫が得られたのだと思います。

 ところで、大抵人は知らず知らずのうちに何かを祈ります。まして信仰を持っている人は、就寝前の祈りは1日の反省も込めて忘れることは無いでしょうし、折々の祈りも習慣になっています。

 でも、長い人生の中では今日だけは特別な見守りや救いをと祈りたい日があるものです。重い病気、大きな不幸や悲しみ、受験や結婚のような人生の岐路では「今日の」祈りに全てを込めます。

 この時忘れてはならないのは、その祈りがあくまでも「神様のみ旨に沿う覚悟なのでお望みの道をお示し下さい」という信仰告白であることです。

 丁度節目の農作業に心を込めながらも全てを土に委ねる農夫のように。


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