この由々しい事態を引き起こしたのは、「誕生祝いの予約、しといたからねー」との、息子の一言でした。我が家では、家族の誕生日が近いことから、こうして1回にまとめて祝っているのです。それがたまたま私のレッスンとぶつかった訳なのですが、そこは父親たる私、堂々と「よしっ、レッスンをお断りしよう!」と、あらぬ方角へ事を決着させてしまいました。
こんな風に、毎日というものは、そうそう決められた通りにだけ進められるわけではありませんよね。今の話は、私のせいだったのですが・・。
しかし、そういう言わば横波のような揺れをかぶりながらも、私達は毎日の生活を、何とか一定の方向性を感じられるように送っているとも言えるでしょう。
そしてこの事は、私達の心根が、教会の年間を通じての祈りと、つまり神様が讃えられますように、そのみ旨が成就しますようにとの願いと一致していることを示していると思うのです。
その上で、個人としても「今日の」祈りとして、「主よ、あなたが讃えられるためには、まず私が改心しなければなりません、助けて下さい」と祈ると共に、「あそこの美味しい料理を食べに行かせて下さい」と祈るのも、私たちと神との親しさではないでしょうか。
人は時々、経済的な不安、身体への不安、更には宗教的な不安を感じるものです。若い頃の私の祈りの中身は、職場の人間関係、お金、難しい仕事に関することで、その祈りは今から思えば支離滅裂な祈りばかりでした。しかし、その体験のお陰で、今、人々の生き甲斐発見、という勉強会が展開出来ています。
生身の身体を持つ人間がこの厳しい世界を生き抜く場合、今日の祈りの中身は、多分人には言えないドロドロした内容の祈りでしょうし、哀しい叫びのような祈りかもしれません。
ご縁があり洗礼をうけましたが、私が信じる神様は愛そのもの、と言われています。愛そのものである神様は、私の毎日の祈りを暖かく優しく聴いてくださっていることでしょう。今は、心豊かな若い人々と勉強を楽しむ日々が続いています。
今も昔も私の祈りの内容は、人には言えない内容ばかりです。
しかし愛そのものである私の神様、宇宙の創造主、全知全能、十字架の贖罪と復活の神様、全てお見通しの私の神様ですので、なんでも安心して今日も祈っています。美しくない矛盾した私の心を正直に祈りますと、理由は分かりませんが、生きる喜びと幸福感が湧き出すのが不思議です。