先日、栃木県の那須にある、女性のトラピスト修道院を訪ねました。完全な沈黙のうちに、朝3時半に起床し、晩の8時に就寝します。1日の多くは、聖堂における共同の祈りで、他は田んぼや畑や台所などでの労働です。そこには45名の修道女が生活しています。那須高原の大自然に囲まれた静謐な環境は、いわば地上における天国だろうと感じました。そして、そこでの修道女の祈りこそが、社会と世界の平和と安全を守っているような気がしました。
わたしたちは、無論、隠遁者ではありません。世俗の真っ只中で生活し、働いています。しかし、そういうわたしたちが、今ここで安らかに、明るく、楽しく生きられれば、それが、「今ここで」神と共に生きる天国なのではないでしょうか。
それには、必ず祈りが必要です。祈りには定義も方法もありません。ただ、今ここで神と共にあるということを意識して、神さま、あなたが大好きです。どうぞ必要な恵みをお与えください、と祈ればいいのです。
しかし、人生にはどうやっても受け止めきれない試練があります。解決の糸口が永遠に見えないように思える問題も発生します。
どうしようもなくなって「もう祈れません」と宣言し、祈りから遠ざかってしまうことだってあるのです。
それでも、私は神様が待っていてくださるとどこかで信じています。祈れないといっても、1度神様と出合った人は、どこかで祈っていることが多いからです。不思議なことに、神様との対話を打ち切っていても、誰かが必ず見ていて、代わりに祈ってくれているのです。ある程度時間が経ってそれが分かったとき、祈りは戻ってくるようです。「ただいま」、といった短い祈りになることもあるでしょう。
長く祈らず瞬間的に神様と通信する方法に、射祷というものがあります。神様は祈る前から私たちの状態を見ておられるわけなので、本来は「ああ、神様」と呼びかけるだけで、「分かっているよ」となるはずなのです。
だから力を抜いて一言「神様、あのね」と始めてみる。
祈りに困ったら、試してみると良いかもしれません。