『今日の』祈り

越前 喜六 神父

今日の心の糧イメージ

 "今日ここに 生きるは神と わたしのみ"。

 「今ここに」という言葉があります。わたしたちが生きているのは、まさに今であり、ここであります。過去でもなければ、未来でもありません。一瞬に生きると言いますが、一瞬は永遠なのです。だから、キリストは、明日のことは思い煩うな、今日の労苦は今日で充分だ、とおっしゃったのです。

 不安や心配や思い悩みは、大抵、過去や未来に関係しています。多くの人の意識は、そういうことにとらわれているので、なかなか安らかに生きられないのです。人の幸不幸は、あなたの意識にあって、環境にあるわけではありません。それを多くの人は考え違いをしています。

 先日、栃木県の那須にある、女性のトラピスト修道院を訪ねました。完全な沈黙のうちに、朝3時半に起床し、晩の8時に就寝します。1日の多くは、聖堂における共同の祈りで、他は田んぼや畑や台所などでの労働です。そこには45名の修道女が生活しています。那須高原の大自然に囲まれた静謐な環境は、いわば地上における天国だろうと感じました。そして、そこでの修道女の祈りこそが、社会と世界の平和と安全を守っているような気がしました。

 わたしたちは、無論、隠遁者ではありません。世俗の真っ只中で生活し、働いています。しかし、そういうわたしたちが、今ここで安らかに、明るく、楽しく生きられれば、それが、「今ここで」神と共に生きる天国なのではないでしょうか。

 それには、必ず祈りが必要です。祈りには定義も方法もありません。ただ、今ここで神と共にあるということを意識して、神さま、あなたが大好きです。どうぞ必要な恵みをお与えください、と祈ればいいのです。

『今日の』祈り

三宮 麻由子

今日の心の糧イメージ

 「ああ、神様」

 この一言しか出ないときの祈りが実は1番深いなと思うことがあります。

 カトリックでは、ミサの中でたくさんの祈りを唱えます。初めて経験したときには、とてもおぼえられないと思いましたが、馴染んでいくうちに、いつしか自然に出てくるようになりました。心の機微を正確に言葉にして祈るのは難しいものですが、ミサの中で決まった祈りをたくさんの人と一緒に唱えていると、そうした細かな祈りがすべてミサの祈りに乗って神様に届いていくと感じることがあります。長い年月をかけて完成された祈りには、こういう力があるのでしょう。

 しかし、人生にはどうやっても受け止めきれない試練があります。解決の糸口が永遠に見えないように思える問題も発生します。

 どうしようもなくなって「もう祈れません」と宣言し、祈りから遠ざかってしまうことだってあるのです。

 それでも、私は神様が待っていてくださるとどこかで信じています。祈れないといっても、1度神様と出合った人は、どこかで祈っていることが多いからです。不思議なことに、神様との対話を打ち切っていても、誰かが必ず見ていて、代わりに祈ってくれているのです。ある程度時間が経ってそれが分かったとき、祈りは戻ってくるようです。「ただいま」、といった短い祈りになることもあるでしょう。

 長く祈らず瞬間的に神様と通信する方法に、射祷というものがあります。神様は祈る前から私たちの状態を見ておられるわけなので、本来は「ああ、神様」と呼びかけるだけで、「分かっているよ」となるはずなのです。

 だから力を抜いて一言「神様、あのね」と始めてみる。

 祈りに困ったら、試してみると良いかもしれません。


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