よくある光景の一つなのだが、「共にいる神」という言葉から思い出すのは、この場面なのである。私は通り過ぎただけなのに、この二人を今も覚えているのはなぜなのだろう。
そばにいてくれる友人の存在は心強い。だが、「友人」を「神」に置き換えてみると、私たちは更に心強くなり、そして励まされる。遠い雲の上、天のどこかではなく、人々の中にその存在は感じられる。例えば、疲れや痛みをこらえている人、悩む人、孤独に苛まれる人のすぐそばに。その気配に気づくと、不思議なことに、私たちは自分を粗末に出来なくなる。他人を粗末に出来なくなる。
なぜならこの気配は、私たちが多くの欠点を持っていることを思い出させるからである。そしてその欠点にもかかわらず、許されていることを感じさせるからである。それならば、その無言の言葉に私たちもならわなければならない。
空港の雑踏の中で、夜ごとの夢の中で、私たちはいつも何かを探しているようだ。だが求めてやまない人間のそばに、静かな気配はいつも共におられる。