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共にいる神

岡野 絵里子

今日の心の糧イメージ

 困難に直面した時、誰かが一緒にいてくれれば、それだけで心強いものだ。

 以前、空港の到着ロビーで、スーツケースの中身をかき回すようにして何かを探している女性を見たことがある。彼女が探していたのは携帯電話で、早く家族に電話しなければという焦りと大事な携帯を海外でなくしてしまったかもしれないという心配で、彼女ははちきれそうになっていた。そばには友人らしい女性がいて、彼女を落ち着かせようと声をかけながら付き添っている。友人の女性は疲れて見え、早く家に帰りたかっただろうに、辛抱強くいつまでも彼女に付き合っていた。

 よくある光景の一つなのだが、「共にいる神」という言葉から思い出すのは、この場面なのである。私は通り過ぎただけなのに、この二人を今も覚えているのはなぜなのだろう。

 そばにいてくれる友人の存在は心強い。だが、「友人」を「神」に置き換えてみると、私たちは更に心強くなり、そして励まされる。遠い雲の上、天のどこかではなく、人々の中にその存在は感じられる。例えば、疲れや痛みをこらえている人、悩む人、孤独に苛まれる人のすぐそばに。その気配に気づくと、不思議なことに、私たちは自分を粗末に出来なくなる。他人を粗末に出来なくなる。

 なぜならこの気配は、私たちが多くの欠点を持っていることを思い出させるからである。そしてその欠点にもかかわらず、許されていることを感じさせるからである。それならば、その無言の言葉に私たちもならわなければならない。

 空港の雑踏の中で、夜ごとの夢の中で、私たちはいつも何かを探しているようだ。だが求めてやまない人間のそばに、静かな気配はいつも共におられる。