私たちは健康でいる間は、今日1日を生きていることを当たり前に思っている。それどころか、この先も元気に活動できることを前提に、将来の計画を立てたり、長期にわたる仕事を始めたりする。
だがもし、この作家のように、突然倒れ、社会生活を奪われたらどうだろう。今日という日は、全く別の意味を持ってくるに違いない。
私たちは祈るということを知っている。祈りの習慣を持たない人でも、朝、目が覚めて、今日も頑張ろうと思ったり、よき1日であれと願ったりするものだ。それもその人なりの、1日の最初の祈りであるように思う。
けれども、今日1日が特別に与えられた恵みであると気がついたなら、その人の朝の祈りは、喜びと感謝の祈りになることだろう。悩みや困難な問題を抱えていても、それは、今生きているからこそ抱えられるのである。
「今日の」祈りとは、「今日を祈る」祈りではないだろうか。生かされていることを喜び感謝する祈り、そして悩みや困難は必ず乗り越えられると、私たちは回復していくと信じる祈りなのであると思う。
でも、ある朝、とても嬉しいことがありました。教会の帰り道、周囲に人がいなかったのでお店の軒下をそっと見上げました。何羽も並んだツバメは黙っていました。眠っていたようです。ふと、店の入口に新聞紙が重ねて広げてあるのに気づきました。端の方はレンガで止められており、白い糞がいくつも落ちています。私は喜びで一杯になりました。お気持ちがわかったからです。ヒナが飛び立つまでずっといていいよ、と言っているのです。ツバメの命を大事にしてくださった! 楽しい気持ちになりました。
ツバメだけではなく、ありとあらゆる命はみな神さまが造ってくださったものです。特に人間は、神に似せて造られているので最も美しい命です。どんなに小さくても大切にしなくてはなりません。
私は毎日祈ります。今日1日、小さくて、まだ目には見えない胎児を守ってください。どうか、神が信頼して母親に預けたその命を大切に育てることが出来ますように。そして、生まれてきた赤ちゃんや幼児がどれほど母親を愛し、信頼しきっているかを知ることが出来ますように、と。