その後、人間関係で困難なことを抱えたときや、阪神淡路大震災で救援本部を立ち上げるという困難な使命を受けたとき、また、人の悩みを聞いてどうしてよいか分からなくなったとき、そして、出会った人の幸せを思うとき、この祈りが自然と出てくるようになりました。
最近になって考えます。それは、特に私が苦しいとき、怒ったとき、悲しいとき、意味がわからなくなったとき、それでもそこに同伴するイエスが佇んでいると思い浮かべることが、どれほど大切かと言うことです。
イエスを意識できること、それも無意識の時でも心の奥底にイエスの居場所を設けていると、人生を生きる土台が見えてくる、その営みが祈りなのではないのかと思うのです。
「イエスの祈り」を唱えるとき、私に「あなたは孤独ではない」と言い続けるイエスが見えてくるのです。
反対に私自身や家族、友人達がどうしようもない困難に陥った時も、救いを求めてこの祈りをそっと唱えている。すると心が軽くなり、解放された気持ちになる。信じて委ね切れば守られるのだ。
この不思議な祈りは、専業主婦の私がニュースキャスターに引っ張り出されて初日を迎えた前夜、不安に耐えきれず祈り始めた時、不意に私の胸の奥から迸りでてきたのである。テレビニュースの仕事は我が身を視聴者にさらしての生放送で、極限の重圧がある。しかし天を仰いでこの祈りをすると、心臓は緊張で飛び出しそうなのに、心の奥は平静でリラックスできる事を体験した。
後に、それは聖パウロが手紙で言っている「異言」を語ることのようだと思った。(参:1コリント14章)英語では「タングツイスト・プレイヤー」と言うように、舌を転がして意味の分からない音声を歌うように発するその祈りは、まるで野の小鳥になって無心にさえずっているようだ。悩みは消えて軽やかに空を飛び回る気分である。
要するに「父と子と聖霊」への賛美と感謝の信仰宣言、生きて働かれる聖霊とのコミュニケーションの、直通110番のようなものかと思う。「イエス様 愛します。助けて下さい!今来て下さい!あなたに委ねます!この方に祝福を」という私の射祷なのかとも思うのである。