ある時、仔馬が産まれた。仔馬は起きている時にも、眠る時にも母馬にぴったりとついて、片時も離れることがなかった。少しずつ歩く練習をするが、その時でさえ、母馬に仔馬は体の1部をつけていた。走る時にも母馬のそばに寄りそっていた。次第に母馬と仔馬は少し遠くまで出かけるようになった。
ある朝、祖父の一家は、馬の親子が仲良く走っていく後ろすがたを見送ったという。しばらくして、仔馬が1頭で走ってきて、庭先で急を告げるいななきをした。母馬のそばを離れたことのない仔馬なので、何かあったのだと、家中の者が仔馬の後を追いかけた。するとそこは水草が絨毯のように浮いている沼だった。母馬は沼でもがいていた。沼はもがけばもがくほど泥がまとわりつき沈んでいく。皆で母馬を助けようと様々なことをしたが、ついに沈んでしまった。
私にとって祖父の話は、仔馬が母馬の急を告げにきたところで止まっていた。今、自分自身の祈りをふり返って見ると、馬の親子の話がよみがえってきた。
朝起きたら、主イエスのもとに仔馬のように駆けていき、「今日、主イエスが私に望まれることは何ですか?」と自分の思いを超えて聴こうと思った。
イエスの時代、多くの貧しい人たちにとって、「今日の」糧に恵まれなかったことも多々あったことと思います。そんな状況の中で、この祈りは、実に切実な祈りであっただろうと想像できます。そして、長い間、貧しい人たちにとっては、心からの祈りとなっていったことでしょう。
現代世界においても、食物に恵まれない多くの貧しい人たちにとって、この祈りは切実な祈りとなっていることと思います。
幸い、日ごとの糧に恵まれている人にとっては、この祈りはあまり重みを感じない祈りになっているかもしれません。しかしながら、この祈りを、その日の糧に恵まれない貧しい人々と共に、心を合わせて祈ることによって、自らの糧を他の人々と分かち合う心が生まれて来るのではないでしょうか。
「今日の」祈りとして捧げる主の祈り、特に、「私たちの日ごとの糧を今日もお与えください」という祈りを通して、分かち合いの心、隣人愛の心を「今日も」呼び覚ましていくのだと私は思います。
このように「主の祈り」は、神さまと私だけがつながる祈りではなく、周りの人に目を向けるようにと促してくれる大切な祈りなのです。私たちの心が開かれ、多くの人たちと「日ごとの糧を」分かち合うことができますように。