2018年07月31日の心の糧

心の痛み

高見 三明 大司教

今日の心の糧イメージ わたしたちは、しばしばテレビの映像などを通して、世界中の不幸な人々の姿を目にします。ストリート・チルドレン、戦争で手足だけでなく家族を失った人たち、長い間失業しているため、これから先の生活について不安でいっぱいの人たち、孤独のまま死んで行く人たちなど。彼らの姿を見るにつけ、また、人々の不幸な状態を見聞きするとき、わたしたちは憐れに思い、自然に心が傷みます。それは愛の第1歩です。

しかし、近くにいるほかの人の心の痛みを、自分のものとして感じ取ることはそれほどやさしくありません。

"断腸の思い"という言葉があります。あまりに辛く悲しいために、はらわたがちぎれる思いがする、という意味です。これは、母猿が自分の子どもを人間に取られたとき心配のあまり死んでしまうのですが、はらわたがずたずたになっていたという故事に由来しています。

聖書にも同じように、母親が、自分の胎内にいる子どもの気持ちをそのまま感じ取るところから来る"憐れむ"という言葉があります。それは、悲しみや苦しみの中にあるほかの人のことを思って、はらわたが、揺り動かされることを意味します。わたしたちが、ほかの人の心の痛みを自分の痛みとすることができるなら、それは単なる同情以上の、さらに深い愛であると言えます。

キリストも、さまざまな病気で苦しんでいる人々、食べ物や精神的な支えのない人たちをごらんになって、はらわたを揺さぶられ、深い憐れみの心を抱かれました。しかも、その後すぐに、病人を癒し、食べ物を与え、支えのない人たちを力づけました。人の心の痛みを、自分のものとして感じ取るだけでなく、人を癒し力づけることができるなら幸いです。

2018年07月30日の心の糧

目覚める

小林 陽子

今日の心の糧イメージ 「たえず目を覚ましていなさい」とはよく言われることですが、これがあんがい難しいのです。

じぶんにとって良いとき、つまり物事が成功しうまくゆき、周囲の人々から賞賛を浴びているようなときがアブナイ。

失敗し、挫折し、落ち込んでいるときには、自分や人の心をまっすぐ見つめようとし、本当のところを見据え、受け入れやすいように思われます。ああ、もう最悪、などというときは、どのみち「良くない」「悪い」状態にあるのですから、これ以上悪くなってもタカが知れてるとひらき直ることもあります。これはもう、恐いものナシ、の境地ですね。

だからといって、ずっと失意の中にいる方がいいなんて思いません。そうであったら、人生暗くなってしまうでしょう。これはもう、「神さま、すべてはあなたの掌のうち、御心のままになさってください。お委せします」というしかありません。「いいですか、おまかせしちゃいますよ、」と。

では、どこまでゆくと「目を覚ましている」といえるのでしょうか。

現実を、人を、ありのままに見据え、ありのままに受け入れるって、こわいことなのですね。だって、本当のこと、ありのままの姿といったって、その時代の社会状況、その渦の中に巻き込まれて、しらずしらずDNAに刷り込まれているものかもしれませんし、油断はできません。

なにもかもうまくいっているときには、舞い上がっていい気にならず、「さてもよいこと2つとないよ」の諺を思い起こして気をひきしめます。

「1日に3つだけ、今日のよい事、を見つけて感謝しましょう」とは、ある方の言葉。こんな小さなことでも「目覚め」ですね。


1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11