父は64歳で病死したが、子どもたちにお金も物も遺さなかった。というより、父の人生は不遇であったので遺せなかったと表現した方がぴったりである。
しかし、私たち5人のきょうだいは、父のぬくもりだけはふんだんにもらって育った。
「美沙子さんはよほど可愛がられて大きくなったんやろうね。その年まで、そんなに無邪気でいられることは珍しいもんね」と、よくいわれる。
無邪気で思い出したが、私のこれまで出会ったシスター方や神父さま方の無邪気なこと。
どうしてだろうかと真剣に考えたことがある。もちろん、両親や縁者には可愛がられたであろう。しかし、私の無邪気さなどと比べたら比べものにならないくらい天真らんまんである。
人間として努力してもなれるものではない。そして、やっと気がついた。
神父さまやシスター、ブラザーなど、聖職者は父である神さまのふところにすっぽり抱かれているから、全身全霊安心して天真らんまんなのだと。365日、神さまのぬくもりの中にあるからだと。ほんの少しでいいからあやかりたいな。
聖書の記述に沿ってマリア様のご生涯をたどり黙想してみると、マリア様は何事も慌てず騒がず自然体で受け止め、祈ることで解決なさったと理解できますし、懐の深い大きく温かい人柄が想像できます。幼いイエズス様はマリア様の温もりの中ですくすくと成長なさり、知恵も身の丈も勝っていかれたのでしょう。
12歳になられたイエズス様の神殿でのエピソードは、母である女性にとってはとても印象的です。わが子が迷子になったのではと心配する親に対して、「どうして私を捜したのですか、私がここにいるのは当たり前の事・・」と堂々と答える息子。(ルカ2・49)普通は急に大人びたわが子の様子におろおろしたり、感情的に叱ったり、いよいよ親離れかと表情を硬くしたりするのが親、ことに母親です。でも聖書でルカは「母はこれらのことをすべて心に納めていた。」(ルカ2・51)と書いています。信頼と愛情、まさに温もりが伝わってきます。