司会をしながら、ふと〈なぜここに集う皆は、こんなにも言葉が好きなのだろう?〉と問いかける自分がいます。その思いを巡らせてゆくと、〈誰もが独りきりの寂しい思いをしたくないという気持ちから、ぬくもりを求めるのだ...〉という感覚に至ります。おそらく私は生涯にわたり、詩の朗読による分かち合いの場を縁のある仲間と織り成してゆくでしょう。その声と言葉の空間には、お金では買えない〈何か〉が宿っているからです。
朗読会の中では、ある詩人が聴く人の魂を震わせる詩を読みます。また、ある詩人はユーモラスな詩を読み、聴衆の笑いを誘います。詩人が舞台を下りるとき、会場は拍手に包まれ、その光景に、司会の私はぬくもりを覚えます。朗読会の後の打ち上げでは皆が親しく食卓を囲み、それぞれが各々の街へと別れてゆく際、仲間同士で握手を交わす瞬間も、ぬくもりがあります。私は仲間と手を結ぶと、互いの心に言葉にならない思いが流れるのを感じ、いつもその余韻に浸りながら、家路へ向かって歩いてゆきます。
「木材は肌に優しく、木目の美しさは目を優しく包み...」と続くチラシを見ると、私は、神様が創られた自然の偉大さ、素晴らしさ、そして、その中に調和する存在として置かれた人や動物、他の命あるものとの関係性を感じます。神の創られた世界は本来、人がこの地球の法則に調和して、自然の流れに沿って生活し、心に「ぬくもり」を感じさせてくれるものです。
教皇フランシスコは、回勅『ラウダート・シ』の中で、「この地球は、『私たちの共通の家』」と表現され、「地球の脆さと人々との間にある密接なつながり、すべてが厳密に関連し合っている」ということを、私たちに思い起こさせてくださいます。
人間と地球のあらゆる創造物はオーケストラのような関係です。それぞれに持つ価値を再確認し、自己中心や人間中心主義に陥ることなく、互いに調和して生きる道を模索することによって、「私たちの共通の家」は、「目と心に優しく、気持ちにゆとりや安らぎを与える『ぬくもりの家』」に変えられるのではないでしょうか。