一方、インターネットでぬくもりについてみてみますと、「木のぬくもりもある」とか、いろいろな意見が出てきます。
「自分が落ち込んでいる時に、何にも言わずに、そっと、側にいてくれたり、厳しくも優しく励まされた時に、人の『ぬくもり』を感じます。また、好きな人と一緒にいるとき、幸せを感じ、ぬくもりも感じます」「ぬくもりの理解は、人によって異なります。ある人にとって必要なぬくもりは、文字通り他人の体温で、手を握られるだけでも気持ちがほどけてくると言います。また他の人は、体温よりずっと、ぬくもりを感じるのは、友人の優しさで、これに感謝します」など、投稿者は、物理的なぬくもりとともに精神的ぬくもりを述懐しているのが目立ちます。
強すぎず、弱すぎず、程よい加減の温かさのぬくもりは、貴重な感覚、自然、安らぎ、融和、微笑み、満足をもたらしてくれます。 今の社会は、ぬくもりに欠けており「無縁社会」とまで言われています。これにいかに対処すべきか。
「何事でも、人から自分にしてもらいたいと望むことを、人にもしてあげなさい」(マタイ7・12)とは、聖書の一節ですが、これを「ぬくもりある社会」実現のための黄金律としたいものであります。
けれども、人が一番欲し、願っていることは、愛する人の傍にいて、「ヤマアラシのメスとオス」のように、つかず離れずの程よい距離を保ちながら、愛情こめて語り合い、共に食し、共に活動し合う関係ではないでしょうか。
人には相性というものがあります。気が合う人とは、別に努力をしなくても、自然に何となく気性が合うということがあります。そういう友人と一緒に居るときには、何となくぬくもりを感じるのではないでしょうか。
そういう人との共同生活が理想とは思いますが、現世はままならぬもので、ぬくもりを感じさせる友とはなかなか出会えないものです。仮に出会ったとしても、別れることが多いと思います。
わたしも若い時、教会で1人の女性が好きになりました。世の中は戦後の貧しい時代でしたが、彼女と一緒に教会の活動をしていた2年間は、本当に楽しく、幸せに満ちたものでした。特に、教会の活動を終え彼女を自宅まで送ってゆく道すがら、信仰の話をしていたときは、ぬくもりというか、恋愛感情とはこういうものかと思いました。間もなく、わたしは修道院に入りましたが、彼女も2年後に女子修道院に入りました。しかし、間もなく病に罹り帰天されました。
わたしのぬくもりは想い出です。