ぬくもり

遠山 満 神父

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カトリックの司祭、修道者として独身を生きる私にとって、人にどのようにして人間的な温もりを提供するかという事は、長年に亘る懸案の一つでした。日常生活で人を抱擁することにも慣れていない私が、自分の立場でどのように人間的な温もりを人に伝えれば良いのでしょうか。家庭生活を営んでいらっしゃる方達が醸し出す何とも言えない温もりには遠く及ぶはずもありませんが、自分の立場で何かできないか考える日々です。

温もりということに関して、最近、私の脳裏に浮かんでくる人々は、温もりから遠く隔たった場所に置かれてきている人々のことです。

例えば、旧約聖書の中に登場する重い皮膚病患者は、独りで宿営の外で生活しなければなりませんでした。加えて、他の人たちの側を通る時には、「私は汚れた者です」と言って、周りの人たちに知らせねばなりませんでした。新約聖書中には、イエス様が、ある村に入られると、重い皮膚病を患っている10人の男が遠くの方に立ち止まったまま、「イエス様、先生、私達を憐れんで下さい」と叫び、その後彼らが癒されたことが記されています。(ルカ17・11~13)彼らは、人に近づくことが赦されていなかったので、「遠くに立ち止まったまま」懇願したのです。彼らに対するこのような処遇は、国を問わず、時代を問わず、共通しているものがあります。

私は彼らのことを思う時、どんなにか人の温もりに飢え渇いていたのではないかと想像します。彼らの苦しみには及びませんが、私も人の温もりが恋しくなる時、その苦しみを彼らの為に捧げることができたらと思います。

社会の中で疎外されている人々が、少しでも人の温もりを感じることができますようにと祈るばかりです。

ぬくもり

三宮 麻由子

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鳥の生態調査をしている研究者の方に教わって、何種類もの小鳥を次々と手に取ったことがあります。

窒息させないように、まず足をつかんで動きを止め、静かに手のひらに乗せてから、両手で包むように持ちます。

最初は暴れたり鳴いたりしていても、両手に収まった時点でたいていの鳥は静かになります。なかには、目を閉じてうとうととまどろみ始める鳥もいます。

手の中の小鳥は、見かけの半分くらいのボリュームしかありません。そんな小さな体でまどろむ小鳥に話しかけていると、温もり以上の何かを感じます。

小さな心臓が大変な速さで鼓動していて、その振動が、まるで小鳥が震えているかのように伝わってくる感じ、羽毛が私の手の温度を吸収して返してくる感じ、自分の千倍の大きさの人間につかまえられて、恐いことしない?と問いかけてくる気持。

「大丈夫だよ、安心してね」

私の言葉は通じているように思えました。そして、彼らのか弱さからは信じられないようなエネルギーを感じるのです。こうして、小鳥と私は互いのぬくもりを伝え合いながら「命が刻む時間」を共有したのでした。

実は、昆虫観察で虫を手に取ったときも、鳥と同じことが起きました。虫には体温がないのでこちらに温もりが返ってくることはないのですが、虫たちも私の手のなかで、気持ち良く休んでいました。私の手の温もりを受け止めてリラックスし、鳥と同じく命が刻む時間を共有したのです。

人間同士も、ハグや抱っこを通して温もりを交換することで、命が刻む時間を共有します。言葉が通じなくても、温もりは通じるのです。

温もりとは、体温の高さに関わらず、命が刻む時間を分かち合うためにすべての生物に与えられた共通の言語なのかもしれません。


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