ある人とは、私が深く関わった覚えがないのに、毎年挨拶をもらいます。私との出会いを本当に喜んでいたようですが、こちらとしては申し訳なく思います。反対にあの人とはずいぶん親しかったのに、と思う人からはしばらく音沙汰がなく、何か体でも悪いのだろうかと思ってしまいます。
こうして、年の初めには、年賀状を眺めながらの、自分の人生の振り返りを毎年行うわけです。
そして、こうも考えるのです。
私が思い描く私の人生は、多くの人々から影響を受け、多くの人々に影響を与えながら歩んでいるのだと。また、自分が意識して出会った人は、ある程度自分の興味の中で出会っていったなあ、そして、自分が気が付かないうちに、色々な人々と繋がり、その人々は私を意識して大切にしてくれているなあと。
そして何時もこう結論づけるのです。日常生活の、目立たないところで出会った人との関わりは、しっかりと自分の人生の土台となっているなあと。だから、年の初めにこそ、このような関わりを大切にする気持ちをもとにこの1年を送りたいなあと。
最近、正月になりますと小学生の頃のことを思い出します。毎年、父親と一緒に年始のあいさつに回ったものでした。何軒かを回るのですが、どこにいっても同じような挨拶と話題で終始します。わたしにとってはとても退屈な時間でした。が、「お年玉」をいただくことによって「我慢しよう」と、いってきかせていたような気がします。
そして今気づくのです。自分が、今、行っている仕草、作法等、ひょっとするとあの正月の年始回りの時の、父親の姿ではないかと。父親の言葉使い、挨拶の仕方。父親にしてみれば、年始のあいさつだけはしておかないと年が明けなかったのでしょう。毎年の恒例行事でした。
現代では、それに代わる何があるでしょうか。育ちのエネルギーは、身近にいる親の言動にあるのですね。あらためまして、親のすごさ、ありがたさが身に沁みます。だから、親に代わることのできる人はいないのです。
こうした子育ちの現場が、年々廃れていくことはさびしいかぎりです。今年の正月は欲張って、今一つ願いごとを加え、神さまに聞きいれていただきましょう。