

娘が小学校にあがるすこし前に、私たちはアパートから小さな家に引っ越しました。2歳の息子は、いままでなかったものをすぐに新しい家にみつけました。2階と1階とをつなぐインターホンと、お風呂場からの呼び出しボタンです。息子はやたらと使いたがりました。
ある晩、何度も呼び出しをうけて堪忍袋の緒が切れそうになったとき、ルカ福音書の「夜中に訪ねてくる友人」(11・5~13)の譬え話を思い出して、考えたのを覚えています。
この箇所については、それまでやっかいだなと思うときがあったのです。
イエスは弟子たちに祈りについて話します。夜中に友の家に行き、客人のためにパンを所望する様子を想像するよう言います。はじめ友人は夜遅いのでと断ります。イエスは続けて、仕舞いにはパンが与えられるであろうと言います。でもそれは友であるからではなく、恥も外聞もなく願いつづけるからです。そして、この後によく引き合いに出される句がつづきます。「そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」(11・9)
有り難いことに息子はやがて待つことを覚え、「呼び出し」を控えるようになりました。息子はヤング・アダルトになり、今や「絶え間なき呼び出し人」となったのは、むしろ私の方なのです!
この経験が教えてくれたのは、積極性こそが、待つという祈りの本質的要素だということです。求め、探し、門をたたきなさい。そしてさらに求め、探し、門をたたきなさい。こうして我慢強く待つうちに、仕舞いには私たちが最終的に必要とするのはパンではなく、ただ開かれた扉と差しだされた神の手だったと気づくのです。