

生まれ育った五島では、おばあさんのことを「ばっば」と呼んでいて、土地の名前をつけて「さがせのばっば」と呼んでいたおばあさんのことを思い出した。
ばっばは当時、60歳過ぎであったが、子どもの私たちから見れば、ずいぶんなおばあさんに見えた。母の母方の叔母で、若い頃は、それは匂い立つような美しい女性であったという。
ばっばは我が家から歩いて1時間半以上もかかる所に住んでいて、年に何回か遊びにやって来た。
背中に大きな風呂敷包みを背負って「おいちに、おいちに・・・」と自分にかけ声をかけつつ歩いてやって来た。
私と弟はばっばがやって来る日には、ばっばの歩いて来る道の見える椿の木によじ登ってその方角を眺めていた。手には椿の大きな葉を20枚ほども持っていた。
ばっばは、刻みたばこをその椿の葉で巻いておいしそうに吸うのだった。
ばっばは我家へ着くと大風呂敷から赤ちゃんの頭ほどもある大きな握りめしを出して、「さあ、食べろよ、腹が破るっぐらい食べろよ」と言うのだった。
私と弟が握りめしにかぶりつくと、ばっばは目を細めて「こん子どんの喜んで食べる姿ば見れば、重か握りめしば、かろうて(背負って)来てよかったっち思うとよ」と喜んだ。
ばっばの田んぼでとれたお米は最高においしかった。
ばっばが来るのを待ち望んだのはお握りだけではなく、10円か20円のこづかいを私と弟にくれることもあった。
イエスさまご誕生のコーナーに置いてある献金箱にお金を入れることが出来ることも嬉しかった。
「ばっば、おおきに」と私と弟がお礼を言うと、「今度は4月のご復活ころに来るけんね」と言って、また、元来た道を「おいちに、おいちに」と言いながら帰って行くのだった。