

2024年、私はスマートフォンに関する本を出しました。スマホが私の目となり、それまで読むことができなかった食品パッケージの文字や印刷物を読み上げてくれるようになったことや、パソコンではアクセスしきれない様々な情報にいつでも手軽にアクセスできるようになり、生活も心のあり方も大きく変わったという経験をエッセイに綴ったのです。
しかし手にした当初、スマホは待ち望んだどころか仕方なく使うことにした厄介な相手でした。手で触れるボタンがなく、音声を頼りにツルツルした画面を探りながらアイコンの位置を確かめたり、文字を入力したりするのです。気の遠くなるような作業に疲れ果て、何度も投げ出しそうになったものです。
けれどいつしかスマホの扱いにすっかり慣れ、自由に情報を得たり発信したりできるようになると、スマホは欠かせない「相棒」になっていました。何よりも、スマホによって私一人で買い物ができるようになったことで、生活が大きく変わったのです。本を書いたのも、この変化がきっかけでした。
いまやカメラ機能をフル活用したアプリやサービスが次々と開発され、文字の読み上げから歩行アシストまで、まさに私が待ち望んでいた「目」になってくれる使い方ができるようになりました。スマホを待ち望んでいたのではなかったのに、蓋を開ければその使い道は待ち望んでいた機能そのものだったのです。
イエスが生まれた当時、本気で救世主を待ち望んだ人ばかりではなかったでしょう。けれどその人々も、主に救われたとき、この方を待ち望んでいたのだと分ったかもしれません。
形になって初めて、それを待ち望んでいたのだと分かるということも人生にはあるようです。