

人々が愚かなふるまいをするなかで、じっと神の心に耳を傾ける人がいます。神の人、預言者と呼ばれる人々です。創世記の物語は、この人々を通して、神がどういう方であるかを示しています。
アブラハムはソドムの町を見下ろすところまでくると、主から人々の行状を確かめるよう命じられます。正しい人たちもいるのに、町のすべてを滅ぼされるのですかと問い返します。「もしその中に50人の正しい人がいたら・・」主は「滅ぼさない」と答えます。「それでは、30人、10人ではどうでしょう」とくいさがります。すると、主は「その10人のためにわたしは滅ぼさない」(創世記18・23~32)と答えます。
ほんの僅かでも正しい人がいて、そこに善の酵母を見た時に、神はそこに賭けてみます。
世界中で、一体どこに神がいるんだ、と訴えたくなる出来事が起きています。神の存在さえ疑ってしまいます。
一方で、祈りの力、人々の想いをひしと感じたことのある人は、この信念を認めずにはいられません。これは、人々の現実の営みにおいてもいえます。その熱き想い、燃える心の願い、人々の祈りが伝わらないというのであれば、私たちの日常の、そして生涯の大半を占める営みは、なんと虚ろで空しいものとなるでしょう。
人々の祈りには心が、魂が、願いがこめられ、それは神にも伝わり、神もご存じである。祈りは人々にも伝わる力を備えている。祈りは信仰の営みそのものです。
聖書に、「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。」とあります。(マタイ5・4、7)
人が人を思う気持、そのために流す涙、熱き願い、そこには大切な意味があるというイエスの山上の教えのメッセージなのです。