

18年前、私は祖国の台湾で、カトリックの洗礼を受けた。
洗礼式は当時両親が通っていた教会で行われた。式の後、司祭が私に「日本に戻ったら、自分に合う所属教会をみつけなさいよ」と言いながら、英語版の洗礼証明書を手渡ししてくださった。
台湾から戻ると、早速自宅から通える範囲内のカトリック教会を1軒1軒回ったが、その最後が現在の所属教会だった。元々、この教会の前を何度か通ったことがあって、川沿いに凛と佇む美しい外観には好印象を抱いていた。
教会を訪れると、主任司祭を始め信徒たちはみなおおらかで温かかった。初めて訪れたにも関わらず、私は自分の家に帰ったような安心感を覚えた。
教会の一員になって分かったことは、主任司祭はいつも同じ祈りを口癖にしている。
「皆さん、この街のために祈りましょう。近隣に住む方々や、教会の前を通っておられる全ての方々の上に、神からの恵みと祝福が豊かにありますように」
この言葉を初めて聞いた時、本当に驚いた。驚いたけれども、嬉しくて、ありがたくて、気がつくと涙が溢れていた。
というのは、無意識に教会の前を通っていた昔の私も、祈りの対象に含まれていたと気づいたからだ。自分がまだ神を知らなかった時でも、すでに誰かが私のために、懸命に祈りを捧げてくれていたのだ。知らず知らず私は祈りの輪に包まれていて、やがてカトリック教会という大きな家族に導かれ、今は祈る側にいる。
祈り合うことは、呼吸することと同じように感じる。祈る度に、恵みはまわりにまわって循環し、その輪は無限大に広がっていく。
かつて私が受けた美しい祈りを、今度はバトンのように多くの人に繋げたい。