

私は戦時中に東北の小さな町に生まれ、育ちました。子どものときに両親を失い、その上、兄弟が多かったと言ってもほとんど男兄弟ばかりで、しかも末っ子であったので、自分の実家や故郷が居心地のよい場所とはとても思えませんでした。
ですから、新制高校を卒業するとすぐに故郷を離れ、新天地を求めて信州は長野市に移住しました。晴天の青空の中、雪に覆われた北アルプスを眺めていると、不思議にも何とも言えない心の安らぎを感じ、ああ私の居場所はここなんだと直感的に感じたのです。
兄の家に落ち着き、出版の仕事を手伝っていると、直ぐ上の兄から教会に行ってみないかと誘われて、行ってみると、大勢の若者がいました。初めは、言葉の訛りで劣等感を覚えましたが、慣れてゆくにつれて、友達もできました。
やがて、その友達からカトリックの勉強をしないかと誘われて、恐る恐る外国人の神父さんの部屋に連れていってもらいました。その神父さんの流暢な日本語と、敬虔な信仰を持つ姿に引かれて教会に通っているうち、聖堂で静かに祈ることが好きになりました。
そうこうしているうちに男女のお友だちもでき、キリスト教を学び、語り合い、時にはパーティを開いたりしているうちに、神父さんから、クリスマスに洗礼を受けないかと誘われ、何の抵抗もなく「ハイ、受けます」と答えていました。
そして、私はクリスマスの深夜ミサで洗礼を受けたのです。
洗礼の感動もありましたが、洗礼式の後、静かな町を一人で家に帰る時、ああここが私の居場所だと感じました。長野市の善光寺への中央通りを独りで歩きながら、内心、深い慰めを感じていました。
その時から、私の居場所は教会だと思い、