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正しさと優しさ

堀 妙子

今日の心の糧イメージ

 平和を祈る時、幼い頃の雪山での体験を思い出します。

 私は父親の実家近くのスキー場の子供用斜面で滑っていました。父はスキーの選手でしたので、リフトで二つの山を越えて三番目の頂上からボーゲンやパラレルターンで滑ってきます。幼い私は山のすそ野にある五~六秒もすれば滑り終わるような斜面で浮かない顔をしていました。父は、そんな私をリフトに乗せて頂上まで連れて行ってくれました。父は私をおんぶ紐で背負って滑りはじめました。ところが天候が急変して吹雪になり、まわりのスキーヤーは猛スピードで滑り降りて行きます。父もそうしようとしたのですが、私を背負っていたのでスピードは出せず、一つの山を降りた頃には猛吹雪になり、方角がわからず、気がつくと谷底が近い杉林にいました。父は一歩一歩登り、元の山に戻りました。

 父は方角がわからないところにいる、と背中で感じていました。私は父がかわいそうで、泣くのをがまんしました。今思うと、私は父が背負った十字架のようなものです。迷走しながらも、最後の山に着いたとき、吹雪がおさまってきました。父は大きなため息をつき、最後の急な山を滑り始めました。すると、山の麓に長靴を二足持って立っている人影が見えました。私にとっては祖父ですが、父にとっては父親です。父は安堵し、自分の父に向かって安心して滑って行きました。

 寡黙な祖父は長靴を渡してくれました。父と私は長靴に履き替え、スキーを担いで祖父の後について帰路につきました。

 十字架になった私、見捨てられたと感じながら正しい道を探す父、麓で待っていた優しい祖父。この体験は、どんなに見捨てられた状況でも平和への道はあると祈る縁(よすが)となっています。