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立派な教え

古橋 昌尚

今日の心の糧イメージ

 「キリスト教と日本文化」という講座の依頼があり、終わりに質問をうけました。

 「なぜキリスト教はこんなに立派な教えがあるのに、戦争を行うのでしょうか。」

 素晴らしい教えをかかげながらも、実際にはそれを基調とするはずの国々がこぞって戦争を繰り広げているではないですか、と言いたげです。

 もっともな質問です。

 キリスト教をその宗教とする国々が戦争を起こしているという現象は否めません。その宗教の教えと国の生き方や行動に隔たりがある点にも異議をはさめません。国がそれまで基盤としてきた宗教的な精神を生きていないのでは、と問われれば、認めざるを得ません。

 この現象はキリスト教に限らずどのような宗教・主義においても見られ、私たちも例外ではありません。

 かつてヨハネ・パウロ二世教皇が訴えた通り、「戦争は人間のしわざです」。

 宗教戦争や紛争は、必ずしも宗教的な教えの対立から引き起こされたものとは言えません。多くは土地や資源、民族、覇権主義などの歴史的な経緯で始まっています。宗教は地域や国を括るのに便利な範疇(はんちゅう)です。私たちは易々(やすやす)と宗教に責任を押しつけます。

 それもフェアではない。それを起こしているのは人間なのですから。

 アウシュヴィッツの生き残りヴィクトール・フランクルは、問われているのはいつも人間であると言います。ユダヤ人に自費で薬を調達したナチスの医者もいた。他方でユダヤ人でも看守として同朋をいじめた人もいたと証言します。何人(なにじん)だから悪で、何人だから善だという図式は成り立たない。問われているのはいつも裸の人間だった、その人がどういう人かが問われていた。

 私たちは一人ひとり、いつも良心を目覚めさせておくよう問われています。