

私がカトリックの信仰と出会ったのは、二十歳を過ぎた頃です。〈人生の意味とは何か?〉〈生きる上で大切なものは何か?〉という疑問が湧き、自分に問いかける日々でした。
当時は神奈川の鎌倉にある実家暮らしで、両親と祖母と同居。近隣にはカトリック修道院があり、のちに洗礼を受けた祖母はシスター方と親しくしていました。ある日、祖母が私にあるシスターを紹介、人生の問いを抱えていた私はその後、週に一度、修道院で聖書の学びをいただき、ミサにも与るようになったのです。
その修道院のミサには、地元の数名の信者以外はグレーのベールを被ったシスター方で、私は一番後ろの席に座り、〈この信仰は一体どのような世界なのだろう―。〉と考えたものでした。
それから、私が洗礼を受けるまで十数年の年月を費しました。キリスト教の信者になることは、〈正しい人でなければならない〉という先入観があり、私には敷居が高いように感じてしまったのです。その一方で聖書を学ぶ中でシスターが私に語った「人間の内にある罪はイエスを通してゆるされる」というメッセージは、深く心に残っていました。
社会生活に法律は必要不可欠ですが、聖書にはイエスが罪人とされる人々の哀しみに寄り添う姿が記されています。また、遠藤周作の著書、『イエスの生涯』を読み、イエスの深い慈しみのまなざしが私の胸の奥に伝わりました。
そして、イエスが十字架の死を遂げた年齢と同じ33歳の時に私は洗礼を受けました。
イエスの教えから〈正しいことも大切だが、優しさ(愛)がなければ意味がない〉と知った私は慈しみの心を忘れず、人や出来事を裁くことなく、かかわる人々を大切に生きていきたい、と願っています。