

自分の方が正しいという理由で、相手が傷つくようなことを平気で言う人がいる。こちらも気にしていることなのに、「あなたはそんなことだから駄目なんですよ」「あなたずいぶん太りましたね」などと、面と向かって指摘してくるのだ。言われた方は大いに困惑するが、言った方は「言ってやった」というようなさわやかな顔をしている。こちらが傷ついているのに、まったく気づいていないようなのだ。
言い分は正しくても、全体として見たとき、相手を傷つけるようなことを平気で言う人を正しい人とは呼べないだろう。どんな場合であっても、人を傷つけるのはゆるされないことだからだ。正しい言葉は、相手への十分ないたわりをもって話されるときにだけ、本当に正しい言葉になる。そう言っていいだろう。
相手へのいたわりを欠いた正しい言葉は、争いを生み出す。傷つけられた方は、当然相手に対して怒りや憎しみを抱くからだ。正しい言葉は、いたわりをもって語られるときにのみ平和をもたらすことができるのだ。
聖書の中に、「正義と平和は抱きあう」(参 詩編85・11)という言葉がある。神さまの愛の中では、正義と平和は対立しないということだ。神さまの愛の中で正義は必ず相手へのいたわりをもって語られるので、正義は必ず平和をもたらす。平和も、弱者を切り捨てた見せかけの平和ではなく、すべての人が大切にされる真の平和となる。正義も平和も、より大きな愛という真理の中に包み込まれてこそ、本物の正義、本物の平和になるのだ。
正義を主張するのは大切なことだが、そのために誰かが傷つくのでは本末転倒だ。何より大切なのは愛であることを、いつも忘れないようにしたい。