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居場所

竹内 修一 神父

今日の心の糧イメージ

 自分には帰る家がある――これは当たり前のようでいて、実はたいへん仕合せなことなのではないか、と思います。なぜならそこは、自分が心置きなく身心ともにくつろぐことのできる場所だからです。さらに家庭、学校、職場のそれぞれに自分の居場所があるなら、それはまた、私たちにとって慰めとなります。

 私たちには、なんとなく落ち着ける自分の気に入った場所があるのではないでしょうか。例えば、あの教室のあの席、あの店のあのカウンター、あの公園のあのベンチなど。また家庭の食卓では、たいてい自分の席が決まっているのではないでしょうか。自分にとって居心地のいい場所、そこにささやかな仕合せがあります。

 イエスにとって、それはいったいどのような場所だったのでしょうか。

 公生活中、彼は、絶えず動き回っていました。

 「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」(マタイ8・20)と言われるほどです。彼はいったい、いつどこで休んでいたのでしょう。

 イエスは、ゲッセマネでの激しい苦しみの中でこう父に祈ります。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」(マタイ26・39)しかしそこは、同時にまた、彼にとってはいつもの場所でした。

 安らぎの家――それは、苦しみをとおして与えられるのでしょうか。そうなのかもしれません。しかし同時にまた、そこには喜びも確かにあります。生涯、神の家をすまいとすることの出来る人は、仕合せです。

 「『神の家に行こう』と言われて、/わたしの心は喜びにはずんだ」。(参 詩編122・1)
 穏やかな明るさです。