

人生でよい問い立てをすることは、どれだけ大切なことでしょう。
生きてゆくうえで、人生についてよい問いをもつことは、問いに答えることよりも意味をもつことが、少なくありません。
そもそも人生における根源的な問いには答えがないのですから。見つからないのです。それが数学や歴史的出来事の年代のように一つであったりしないからです。
パスカルは、「パンセ」の中で「心は理性の知りえない独自の理由をもっている」と、心の訴えと理性の論理にはそれぞれの異なる言い分があると述べています。まして人生の問題となると一筋縄ではいきません。
例えば、生きることの意味、人間とはなにか、本当の自分、生きがい、孤独、愛、悪、罪、救い、苦難、いのち、こうした人生の根源的問題については、必ずしもアレかコレかでは答えられません。
それでも人生の意義を問いつづけるのはなぜでしょう。人間が本来的に意味を求める生きものだからでしょうか。自らの意義を確認してから安心できる、自らのアイデンティティを究めてはじめて「安らかに憩う」ことができる、そんな生き物と言えるでしょうか。
それはときに「居場所」という言葉に置きかえられるかもしれません。自分の居場所、安らいで自分らしくいられるところ、それは、どこにあるのでしょう。
生きるのは面倒でもありますが、こうした人生や人間について尽きせぬ問いに、わくわくすることもあります。生きていくに値する人生が開けているような気もします。
もう問わなくてもいい、問う必要もない、もう何も心配しなくてもよい。そうなるとき、それが人生への答えそのものとなるのでしょう。
その時が来るまで、自らの居場所を求めてしっかり問いつづけたいものです。