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分かちあう

コリーン・ダルトン

今日の心の糧イメージ

 子供たちが幼い頃、夏休みによく米国の親類を訪ねたものでした。

 そこでの夏の風物詩といえば、広々した芝生と満足げな牛たちに囲まれたアイスクリーム屋さんで憩うことです。息子が2歳半になった夏、円錐コーンからアイスを滴らせて座っていると、義理の姉が恥ずかしがり屋の息子をからかいます。

 「そのアイスクリーム、食べてもいいかな?」息子が「うん」と言うとは思ってもいないようでした。息子がベタベタの両手とチョコレートまみれの笑顔でそのコーンを差し出すと、義姉は逆に面食らったようです。誰もベチャベチャのアイスクリームを口にしたいとは思ってもいません。それでも彼女が「味見」したのには、感心しました。

 人と分かちあうことは、小さな頃から教えられてきたことの一つです。家庭でも、幼稚園でも普通に教わりました。

 もう少し大きくなると、社会的なレベルで、持たぬ人たちと分ち合うことについて考え始めます。

 これらはすべてよいことです。でも、それは双方向からの関係性のある行為であるとは言い切れないかもしれません。

 幼い息子は自分の大好きなアイスクリームを他の人と分ち合うことなんて考えもしなかったでしょう。それでも、差し出しました。それは寛大な行為だとか、平等を築くための努力といったものでもありません。ただ自然に、もう一人の人と繋がりあおうとしただけです。たしかに自分のものを人々と分かちあうのは、ときに容易いことではありません。でも誰かがベチョベチョのアイス・コーンを味見させてという願いに、また、痛みや哀しみの物語を聞いてほしい、忙しいときに時間を割いてほしいという時に、気前よく応じることは、ときにずっと大きな愛の行いとなります。