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ささやかな幸せ

竹内 修一 神父

今日の心の糧イメージ

 「私は、不幸になるために、今日も頑張って生きています」――と言う人に、会ったことはありません。これは言い換えれば、人は皆、しあわせを求めて生きている、ということでしょう。それ自体、決して悪いことではありません。

 しかし、「何がしあわせか」は、人それぞれでしょう。

 普通しあわせは、幸福の幸をあてて、「幸せ」と書くでしょうか。しかしもう一つの表記があります。それは、「仕え合う」といった意味を持った「仕合せ」です。自分の仕合せでありながら、自分一人ではそこに導かれない、といった意味を含んでいるように思われます。

 真に仕合せな人――それは、「足るを知る」人ではないか、と思います。自分に与えられた内的・外的なさまざまの事を、取りあえずは受け入れそれをよしとする人でしょうか。このような人は、自分を人と比較して、卑下することも上から目線となることもありません。そのような人は、「単純さ」「謙虚さ」そして「静かな明るさ」を持った人ではないかと思います。憧れます。

 このような人は、ある意味で、「聖なる人」と言ってもいいかもしれません。旧約聖書のレビ記には、次のような言葉があります。

 「あなたたちは自分自身を聖別して、聖なる者となれ。わたしが聖なる者だからである」(11・44)。つまり、聖なる人となることは、私たちの希望である以前に、私たちに対する神の願いであり招きなのです。またパウロは、こう語ります。

 「実に、神の御心(みこころ)は、あなたがたが聖なる者となることです」(1テサロニケ4・3)。

 素朴な心で仕え合う時、私たちは、神に(よみ)せられた人、聖なる人となります。ささやかな仕合せは、ここにあります。