

息子がなにかの理由で目に涙をためて、走ってきたことがありました。慰めようと伸ばした幾つもの腕をすり抜けて、私の腕の中に飛び込んできたのです。そんな懐かしい日々を忘れることはありません。
私には打ち身や擦り傷を癒やすのに、これといった
聖アウグスチヌスもこれと似た現象を、創造主なる神のみ手にあって心の琴線にふれる様子を伝える、有名な箇所で表しています。「主よ、あなたはご自身に向けて私たちをお造りになりました。私たちの心はあなたに憩うまで安らぐことはありません」
聖書でも創造主である神が親としても描かれています。
いくつかの箇所では、聖アウグスチヌスが記したように、神は、自らにむけて私たちを引き寄せるばかりでなく、母親のように子どもたちによって動かされる心をもっていることが感じとれます。
出エジプト記では、神がエジプトで苦しむ自らの民の叫びが聴き、モーセに言います。「あなたはファラオに言うがよい。主はこう言われた。『イスラエルはわたしの子、わたしの長子である・・・』と。」(参 出エジプト 4・22)と。また、イザヤの預言においては、神がバビロニアでの捕囚から戻った民にむけてかける愛の言葉を聞きます。「母がその子を慰めるように わたしはあなたたちを慰める」(イザヤ 66・13a)と。
親のイメージが、そのまま神のイメージであるというわけではありません。それでもイエスが教えたように、私も手を合わせて「私たちの父よ」、と祈りに引き寄せられるとき、たがいに心の琴線に触れる様子を心に描(えが)きたいのです。