

大きな試練はもちろんですが、日々の小さな災難や課題も、思いの外厳しい試練だったりしないでしょうか。小さなことでも重なったり、解決したと思ったら別の問題が起きたりと、溜息をつく間もなく上げ潮の波のように寄せてくる日々の試練に対応しているうちに、気が付くと力尽きて、もうどうでもいいやあ、と投げやりになってしまったりすることもあるものです。
この悩みが解決しますように、分かり合えますように、うまくいきますように、どうしたら良いのでしょう、行動のヒントをくださいなどなど、試練に耐えながら祈り散らしていたあまたの言葉に加え、あるとき私は「この苦しみが、次の道が開かれるための試練でありますように」という新しい祈りを唱えていることに気付きました。
試練の中で、神様が共にいてくださっていると実感できるときもありますが、全く気配を消され、神様、どこかに行ってしまわれたのですか、と呼びかけたくなることがないでしょうか。沈黙に苛立ち、こんなときにこそ力を貸してほしいのに、と思ったりしないでしょうか。聖人たちでさえ、聖人特有の神との距離感を経験すると聞いたことがあります。神様は折に触れてあえて沈黙したり、気配を消したりして私たちを見捨てたかのような空気を作られるようです。祈れば「しるし」を示してくださることもありますが、そうでないときも少なくないでしょう。
この新しい祈りは、神様の出現を待ちながらひたすら進むしかないという極限の中で与えられたのだと思いました。イエスが十字架の試練を受けられたときも、こんな気持ちだったのでしょうか。
絶望しそうなとき、この祈りは希望のしるしの手がかりになるのかもしれません。