

「希望の光が見えた」 「希望のしるしがない」
この社会でよく耳にする言葉です。大きな試練、孤独や挫折など、誰しも生きている間には目の前が真っ暗になったような気持ちに包まれることがあるのではないでしょうか。
わたしたちを救うために人となられてこの世を導いてくださったキリストは、十字架上で最期を迎えられました。その顛末を見た弟子たちをはじめ、ほとんどの人が救いの計画が大失敗であったと感じていたようです。
そんな時に、復活されたキリストは弟子たちの前にそっと現れて「見ないで信じる人たちは幸いである」(ヨハネ20・29)とおっしゃいました。
また、気落ちして旅をしていた弟子たちは、共に歩いてくれている人が復活されたキリストだと気づいた瞬間、キリストの姿が弟子たちの目には見えなくなりました。
なぜそのお姿が「見えなくなった」のでしょう。
それは「消えていなくなった」のではなく、キリストが今、ここにおられることがわかったら、もう「見える必要がなくなった」からだとわたしには思えます。
これに気づいた時、わたしの心に新しい世界が広がりました。
わたしは闇の中を歩むとき「希望の光が見えなくてもいい」「わたしが神さまの愛を信じ、恵みを送ってくださるよう"希望する"ことが大切だ」と確信しました。
永遠の光キリストは復活されて、今、ここに、一人ひとりの中に、この世の中におられるのですから、もうあちらこちらに光やしるしを探さなくてもいいのです!
逆に目を閉じて、心の深みにまなざしを向けてみると、そこにこそわたしたちを見つめ、愛してくださっている希望の光キリストがおられるのです。死と悪に打ち勝たれたキリストに聴き、頼り、語りかけたいと思います。