雑踏の中で、「なぜ頑張らなきゃいけないんだ、結局は死んで何も無くなるのに!」という声を聞いてびっくりしたことがある。
振り向くと、中学生らしい男の子たちが下校して行くところで、どうやら厳しい勉強の毎日に、憤懣がたまっての叫びだったようだ。勉強する意味、人生の意味については、これから時間をかけて、一人一人が答えを出していくのだろうなと想像したことを覚えている。
だが同じような嘆きの言葉でも、中年期以降の大人が言った場合は、深刻な問題を孕んでいることがある。私たち詩人の中でも、会社勤めと家庭の仕事、そして詩を書くという創作の仕事を両立させる努力家ほど、「頑張ったつもりだったけれど失敗の人生だった。全てが虚しい」などと、自分の努力を否定して苦しんでいるようだ。
およそ50代以降は、仕事や自分の身体、家族の状況などが変化し、上り坂を駆け上がっていたのが、下り坂を慎重に進むような生き方に変わっていく。人生の自然な過程の一つなのだが、虚無感や自己否定に捉われる人が多いそうだ。これからどうしたらよいのか、今までの生き方はよかったのか。生きる意味を考え直さざるを得なくなる。
それでも、ここを通って新しい自分自身が始まるのだと、私は思っている。思春期の中学生が子どもから大人になるように、創作をする者が新しい境地と作品を求めるように、より成熟した自分自身が始まって行くのだ。
肉体の寿命が尽きる日も来るだろうが、本当に無になるなどと、誰が言えよう。もしかすると、それもまた始まりなのかもしれない。
悩み、考え直しながら私たちは生きて、何度でも始まっていく。