「フルーツバスケット」というゲームがあります。参加する人数より一つ少ないイスを輪の形に並べ、内側に向けて座ります。オニの一人は真ん中に立ち、「3月生まれの人!」などとさけびます。すると、3月生まれの人はイスから立ち上がって、別の空いたイスに座らなければなりません。「髪が長い人!」「Tシャツを来ている人!」それぞれ、条件に当てはまる人が動きます。オニは、より多くの人に当てはまる共通点を言ったほうが、座れる可能性は高くなります。
このゲームをしてみると、わたしたちは、お互いに違うようでいて、何か共通点をもっていることに気づかされます。そして、最大の共通点、それは、わたしたちは皆「人間だ」ということです。もしオニが「人間!」といえば、きっと全員が動くでしょう。「人間だ」という大切なことを分かち合っていることを、みんないつの間にか知っているからです。
「主よ...人とは何者なので、これをみ心に留められるのですか。...あなたは人を神よりも僅かに劣るものとし、人に栄えと輝きの冠を与え、御手の業を司らせます」と、人間であることの神秘を聖書は詠い上げます(参 詩篇8全体)。神は、必死にイスを取り合っているようなわたしたち人間に、まるで王様のように「栄えと輝きの冠を与え」たと宣言します。つまり、わたしたちは、神とともに「見えるものも見えないものも」(コロサイ1・16)すべての恵みを司り、互いに分かち合うことができる、ということです。
多種多様な果物が入ったフルーツバスケットは、まるで多様性に彩られたこの世界です。そして、その中でみんながいただいている共通の恵みを発見し、喜び、分かち合うのが、この世界に生きるひとつの大きな魅力ではないでしょうか。