ある雨の日に居間でソファーに座り、母とくつろいでいました。
母は読書、私はエッセイのテーマ「光と影」に思いをめぐらせていました。頭の中は、目の前のコンピュータの原稿画面のようにまっ白です。
静けさをやぶって訊きました。
「マム、影ってことばを聞くと、なにを思いつく。」
母はいともたやすく快活に、ためらわずに応えます。
「そうね、自分の影を見ると、どこかに太陽があるのねって感じるわ」
私が予想していたものとは違って前向きな応えでした。影といえばふつう、文学や人生でも悪い予兆をおびています。例えば、夜影になにかうごめくものがあれば、気をつけて!と警戒します。人が「誰かの影のうちに生きている」と言われれば、自らの才能を十全に発揮していないことになります。
影とは陽が遮られたとき地面にあたる暗い形をしたもののことです、こんな基本的な定義について考えてみたこともありません。文字通りの影そのものって、あまりに捉えどころがなくてつまらない。そうでなければ、子どもたちが舗装道路で戯れるおかしな遊びや、人形劇で目にする程度のものです。
それでも、母の率直な答えのおかげで、私は当たり前のことのうちにも何か新しいものに気づくことができました。光があるから私たちは目で見ることができる。でも普段はほとんど光そのものに気づきません。
詩編の4番では詠み人が神に助けを呼び求めます。
「主よ、わたしたちに御顔の光を向けてください」(4・76)と。
これから自分の影を目にしたとき、それが前に伸びようが、背後から追ってこようが、陰気であろうがはしゃいでいようが、自分はたしかに光に囲まれているんだ、と素直に考えていきたいです。