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光と影

竹内 修一 神父

今日の心の糧イメージ

 今年の聖週間そして復活祭の時期は、札幌教区の依頼で、旭川から特急で1時間ほどにある名寄教会で過ごしました。

 復活祭当日の午後は、さらに、そこから車で約30分離れた士別教会に向かいました。普段それぞれの教会に集う信者さんは、約20名とか、5~6名とのこと。ほんとに小さな教会でした。

 それでも驚いたのは、信者さん方から受けた印象です。明るく力強いのです。きっとそれは、それぞれの教会の中心には、確かにイエスがいるからでしょう。

 イエスはかつてこう語りました。

 「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」(マタイ18・20)。ここに教会の一つの本質があります。そのような共同体には、喜びと明るさ、そして感謝の思いが響き合います。

 私たちは、聖書をとおして約3年間のイエスの公生活について知ることができます。しかしそれ以前の約30年に渡る彼の私生活についてはほとんど分かりません。いわばそれは、隠された生活です。しかしそこにも神の本質の一つのあり方があります。イザヤは、次のように語ります。「まことにあなたは御自分を隠される神」(45・15)。

 私たちも、このような神のあり方に学びたい、とそう思います。たとえ社会において脚光を浴びなくても、むしろそのような生活の中にこそ神との深い交わりそして親しさを体験できるのではないでしょうか。

 パウロは、私たちの共同体・教会は、さまざまな部分からなる一つの身体である、と語ります。その際彼は、他よりも弱く見える部分こそかえって必要であり、そこにこそ神の心が注がれる、と語ります。(参 1コリント12・12~26)

 一見影のように見えるところに、神の光は注がれます。