ふとしたきっかけから、何十年ぶりかに学生時代にお世話になった方からお電話をいただきました。本当に思いがけないことでしたが、聞き覚えのある声と、共通の知人の話からなつかしい思いでいっぱいになりました。話題に上った知人とも、不思議なことに、その数か月前久しぶりに連絡を取り合い、度々交流のあった頃の思い出をふり返っていました。この人たちとは、教会を通して出会い、お互いに修道生活を志し、会うことができなくなってからも、折に触れて思い出し、祈り合ってきたのです。
二十歳の復活祭に、私はかねてから望んでいた洗礼を受け、カトリック教会の一員になりました。信仰の恵みをいただいたことで、それからの私の人生は大きく変えられました。今、私は、その恵みの深さを味わい、実感しています。
高校生の頃、校庭で一人の先生と数人の友人たちと共に祈り、語り合った時のことを時々思い出します。「世界の人々の6人に1人がカトリック信者で、1日24時間、世界のどこかで同じ一人の神様に御ミサが捧げられている」という言葉が心に響き、今も忘れられません。
私たちは、毎日曜日に教会に集い、キリストの食卓を囲みます。それは、各人が一宗教の信仰を表明し、信仰上の務めを果たすということだけではありません。唯一の神様によって集められ、愛されている世界中の兄弟姉妹の広く強い絆を確かめる時です。
たとえ直接会うことはなくとも、いろいろな立場で苦しむ人々の痛みに共感し、その必要性のために心から祈り、また喜ぶ人々のよろこびを共に感謝する時、世界各地に広がる神様の子どもが「ひとつになるように」と祈願し、つながりを深めることなのです。