「命二つの中に生きたる桜かな」(『野ざらし紀行』より)――
これは、松尾芭蕉が、期せずして同郷の弟子・服部土芳(とほう)と20年ぶりに再会した時の感懐を綴ったものです。場所は、桜の下。生きていればこそ、の再会です。二人の命が、こぼれ落ちるような桜の命に包まれている、そのような情景が浮かびます。人と人との出会いは、一見当たり前のようでいて、実はその背後には、本人同士にも分からない不思議な縁があるのかもしれません。
縁とは一つのつながり、絆と言ってもいいかもしれません。自分はいったい、誰とつながっているのだろう、とそう思います。普段そう頻繁に会わなくても、〝いざ〟という時には是非会いたいと思える人。そのような人が一人でもいれば、私たちは、きっと生きていけるのではないでしょうか。
最後の晩餐の席で、イエスはこう語りました。――ぶどうの枝が木につながっていれば実を結ぶように、あなたがたも私につながっていれば実を結ぶ。――(参 ヨハネ15・5)ここで「つながる」と訳された言葉、「メノー」は、そのすぐ後では、次のように「留まる」といった言葉で使われます。「わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる」。(ヨハネ15.10)
自分とイエスとの絆は、いったいどのようなものなのだろうか、と振り返ります。イエスからの招きとしては、それはきっと確かなものでしょう。でもそれに対する私たちの応えとしては、実に心もとないものかもしれません。それでも、この関係を信じてより確かなものにしたいと思う時、それは私たちの素朴な信仰となるでしょう。