世の中には、いわゆる声の大きな人がいます。しかしその一方で、なかなか自分の思いや意見を表に出せない人もいます。ここで思い起こしたいのは、ただ単に気が小さいとか内向的といった人ではなく、そもそも社会的立場の弱い人のことです。
そのような人が、今、何を思い、何に悩み、何に苦しんでいるのか――そのようなことに思いを馳せることは、時には、自分の意見を述べることよりも大切な場合があります。そのような時に求められること――それが、思いやりであり想像力ではないか、と思います。その人の奥深くに秘められた言葉にならない言葉を聴くこと、それこそが大切なのではないでしょうか。
そのためにも、私たちは、真っ直ぐな心を整えなければなりません。そのことを可能にしてくれるもの――それが、良心です。
良心は、何が正しくてそうでないか、といった単なる判断能力ではありません。良心について教会は、次のように語ります。「良心は人間のもっとも秘められた中心であり聖所であって、そこで人間は独り神とともにあり、神の声が人間の内奥で響く」。(「現代世界憲章」16)
「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」。(マタイ7・12)これは、聖書が語る黄金律ですが、この場合の「してもらいたいこと」とは、単なる個人的なことではありません。むしろそれは、人間として大切なことです。そのことを深く理解するためにも、私たちは、良心に囁きかける静かな声に耳を傾け、それに従います。それが可能になる時、きっと私たちは、パウロと共に次のように語ることができるでしょう。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」。(ローマ12・15)
その時、真の平和が生まれます。