その神父さまは、静かで穏やかな方でした。頼まれない限り、たいてい何も話さないのでそばにいても存在を忘れてしまうほどでした。
でも、目が合うとすぐに優しい微笑みを投げかけてくださいます。
実は神父さまは何カ国語も話せる知的な方で、だじゃれも上手でユーモアがおありでした。でも、とても謙遜な方でした。ご高齢なので、多くの人はもう引退なさっていると考えておられるようでした。
ところが、いつも陰で貧しい人や困難を抱えている人を助けるために走り回っていたのです。しかし、そんなことは微塵も人に感じさせません。
私は神父さまを尊敬していましたのでお会いするのがいつも楽しみでした。「赦しの秘跡」をお願いすると、深い共感を寄せ、適切なアドヴァイスをくださいました。
あるとき神父さまに、少人数の集まりでミサをお願いしたことがあります。そのお説教で、ご自分が何年もかかわった若い死刑囚の話を分かち合ってくださいました。
青年は、刑務所で面会を続けるうちに、次第に罪の重さを受け止め、心から悔いて正しく生きたい、と願う人に変わっていきました。
しかし、その日が来ると、刑は予定通り執行されてしまったのです。話しながら神父さまは泣いておられました。「イエスさまが十字架にかかって、あれほどひどい目にあってくださったのに。『私が代わりに刑を受けますから、この人たちをどうかゆるしてあげてください』とおっしゃったのに、なぜ人が人を断罪するのでしょうか」と。
重い言葉でした。
私たちは、十字架のイエスさまがなさったことを知るなら、どんなに難しくても互いにゆるし合う人間にならなくてはいけないと思います。