ご復活の喜びと共に、桜前線が段々と北上し、自然界もその息吹を送っています。
さて今回は「生きがい」がテーマです。
私達はそれぞれ生きがいを支えに生きている所があります。自分を犠牲にして、痛みを伴って共に何かを達成する喜びがそれだと思います。
まるで御子の従順によって人間を救う計画を成就したように、マリア様とヨゼフ様の協力でその救いが始まったように、誰かの何かの犠牲の上に、誰かの何かが達成されるみたいな、その犠牲こそが、生きがいとなるのではないでしょうか?
とても平凡な疑問なのですが、何でも御出来になる神の御子は、御自分の命を引き換えに人間を救う事を何故、承諾されたのでしょうか? ご自身の力で奇跡を起こし人間を救い国や人々を守るみたいな、他のやり方があったように思います。
しかし選んだのは全く逆でした。自身の苦悩や痛みを伴って初めて、救う事の本当の意味と、愛するという事を伝えているように思われます。
それなしには人を愛する事は出来ないと、身を持って私達人間に証明しておられるように見えます。
主イエス様の命と引き換えに「人間」というだけで救いの対象になり、愛する対象になる。ここが大事!。人間は神様に愛される尊い存在なのだと人間自身が知ることが大切だよ!と教えているようにも思います。
人間を愛してくれている神様の存在を知る。 決して一人ぼっちではない事を確信する。 「大丈夫だよ」と背中を押してくれる力を知る。私は私で良いと「ありのまま」を受け入れる。
主の精神と命を引き継ぐ人を一人でも多く創ることが、主の「生きがい」だったのではないか?と。
私の生きがいも、そこにありますように。