日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルの生家に「微笑みの十字架」と呼ばれる十字架があるのをご存じでしょうか。私たちの罪の償いのために、多くの苦難を受け十字架にかけられたイエス・キリスト。十字架刑という苦しみの極みにあって、なおも微笑みを浮かべるイエスのみ顔は、私たちに何を伝えているのでしょうか。
イエスは微笑みを持って十字架上から私たちに呼びかけられます。「疲れた者、重荷を負う者は私のもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11・28~30)と。イエスは、苦しみや悩みを取り除いてくれる、とは言いません。ただいつも側にいて、共にその重荷を担ってくださるとおっしゃいます。
私にとっては大きな苦難に思えることでも、他者から見れば取るに足りない小さなものと思われる時があります。そんな時、誰からも理解してもらえないことに孤独を感じ、苦難に立ち向かう力さえ失せてしまいそうになります。しかし、十字架上のイエスは、私の感じる苦しみを苦しみとして感じ受け止めてくださるのです。そこに安らぎを感じるのは私だけでしょうか。
十字架上のイエスの微笑みは、満面の笑みではなく目元や口元がゆるむ微かな笑みです。その微かな笑みは、今は苦しみのただなかにあって恵みや喜びが見出せなかったとしても、苦難の後には必ず恵みや喜びがあるということを私たちに伝えているのかもしれません。だからこそ、そこに安らぎを感じられるのでしょう。
イエスの微かな笑みに、確かな希望と安らぎを感じながら日本での宣教に励んでいたザビエルの姿を思いながら、この四旬節の時を過ごしていけたらと思います。