扉を開けると違う空気が入ってきます。新しい考えを思いついたり、置かれている現状を再確認したりします。良い事ばかりではなく、悪い事も一緒に入ってきます。寒い冷たい空気を入れると目が覚めて、再び頑張る力を貰えますが、いつまでも開けていると虫が入ってきたり、風邪をひいたりと、悪影響も一緒に入って来るのです。
扉を開けるとは善と悪が一緒に入り込むのだと思います。
イエス様は、耳が聞こえず舌の回らない人を群衆の中から連れ出し、離れた所で、その両耳に自分の指を差し入れ、またその舌に自分の唾をつけ、天を仰いで嘆息し「エッファタ」(開け)と言って、耳を開き、舌のもつれを解かれました。(参 マルコ7・32~35)
彼はきっと今まで聞こえてなかったものを聴いたでしょう。それは同時に良い事も悪い事もはっきり聞えたのだと思います。
はっきりすると言う事は時に苦しい事にもなりますよね。
しかし、それを受け止め乗り越えてゆく時、少しずつ鍛えられ、神様のみ旨を実行できる人になれるのだろうと考え直すと嬉しくなります。
もちろん、それは痛みのある耐え難いものになる事もあるでしょう。しかし、それなしには神様の望む者には成長出来ないのかも知れません。
傷つく事を覚悟していても私達は弱い脆い人間です。時には閉じて休むことが必要で、大切なことでしょう。
主があの人を群衆から連れ出して二人だけになって癒されたように、私も主と二人だけの間柄を強めていけたらと思います。
誰しも傷つく事は恐いし嫌だ。でも、このまま成長しない私も嫌だ。何とかして神様のみ旨を果たせる者に成長したいと思います。
せっかく戴いた信仰、そして修道者への道なのですから。