皆さん、引いて開ける戸を押していたり、押す戸を引いていたり、という経験はありませんか。わたしはどうも元来粗忽者なので、度々そういうことがあります。
わたしたちの教会の聖堂の入口は、枠のない全面ガラス戸になっていて、時々、扉が閉まっていることに気づかず、激突してしまう方がいました。また、その扉は引き戸なのですが、初めていらした方が、一生懸命押しても開かないので、教会事務所のほうに来られて「今日は教会は開いていないんですか?」とお訊ねになることもあります。
ところで、扉が閉まっていることに気づかなかったり、開け方がよくわからなかったりということは、私たちの心にも、起こることかもしれません。
わたしたちの小学校で、元気に学校に通っていたある女の子が、急に一人で教室へいくのが不安になってしまったことがありました。毎朝、校舎の入口の扉のところで涙ぐんで、なかなか進むことができません。その子の心の扉は閉じかけていましたが、先生がたの毎日のあたたかい声かけと励ましで、なんとか教室まで行っていました。それも、先生がたが、その子の心の扉を、ムリヤリ押したり引いたりするのではなく、辛抱強く優しくノックすることを続けてくださったおかげでしょう。次の年には、その子はもうしっかり挨拶もして、一人で教室に入れるようになりました。
何かのきっかけで、自分も周りの人も気づかない間に閉ざされてしまった心の中の扉の外で、その名を呼び、忍耐強く「戸口に立って、たたいている」(ヨハネの黙示3・20)愛する方が必ずいます。その声に応えて扉を開け、新たな一歩を踏み出す勇気が、わたしたち一人ひとりの心にあふれ出すことを祈り願います。