私たちの生や死には多くの人々が関わっている。でも究極的には、私たちは一人で生まれ、一人で死んでいく。私たちは、生まれた瞬間から死に向かって歩んでおり、その死への歩みは、人生という名に置き換えられ、またその人生の歩みは旅路にたとえられる。
しかし、私たちの人生の旅路は、旅の行程がはっきりしているような旅行とは違い、人それぞれに歩む距離も時間も、そして立ち止まる場所も違う。はっきりと決められた行程表がないから、疲れたらちょっと一息ついて休んでもいいし、時には道をそれて道草をしたってかまわない。
一人一人の旅路における時間も距離も、そしてその中で起こる出来事も様々だから、百人いれば百通りの生き方が生まれてくる。それぞれ思い思いの路をたどりつつ、死へと向かう。でも、私たちの旅路は決して一人ではなく、単なる死で終わるものではない。
神様は旧約の時代から私たちに約束してくださった。
「私は使いをあなたの前に遣わし、あなたの旅路を守り、私の定めたところに導き入れる。」(参 出エジプト記23・20)
私たちは時々、"道を誤ったかもしれない" "遠回りをして時間を無駄に使ってしまったかもしれない" と思い悩むときがある。"やり直しのきかない人生だ" と諦めてしまうかもしれない。そんな時は、神様の約束を思い出したい。
たとえ神様が遣わしてくださったみ使いを見失い、途方にくれている時でさえ、み使いは私たちの前を歩み、旅路を守り神の定められたところに導いておられることを。
み使いが先立って用意している場所は、決して暗く悲しい場所ではなく、希望に満ちた安らぎの場所であることを。